| このような文の構造について学びます。 |
I don't like some countries. They don't like the Clinton on trial. |
| I don't like some countries. |
"some"や"any"について先ず理解しておかなければならないことは、これらの語は論理学的な意味を持った形容詞であるということです。"some"=「ある」(「ある人」、「 ある町」等の「ある」という形容詞)に対して、"any"=「どんな〜でも」(「どんな食物でも」や「どんな国でも」等の「どんな〜でも」という意味の形容詞です。
例えば、「私はある食物が嫌いです。」 は英語では
I do not likesome food.であり
「私はどんな食物でも食べます。」は英語では
I eat any food.
となるのです。
"some"と"any"に間しては、上のような説明で十分であるはずなのですが、論理学のイロハさえ知らない学校文法は、この "some"や "any"を数量に関係する語として取り扱ってしまうという開いた口がふさがらないような間違いを100年間も日本人に教え続けてきているのです。例えば
という英文を「私はある何冊かの本を持っている。」という直訳の日本語と比べない で、論理学的な形容詞 "some"を無視した訳(その方が実は自然な日本語であるのですが )である「私は何冊かの本を持っている。」という「意訳」とを比較してしまい、"some"=「何冊かの」という意味を持っている語と思ってしまっているのです。
直訳である「私はある何冊かの本を持っている。」と比較していれば、「何冊か」という日本語は "books" という語の末尾の"s"によって表されているのです。
高等学校くらいの英語になると、Some person wants to see you.のように "some"が単数名詞に使われている例をついに無視できなくなり、苦し紛れに"some"には「いくつか」という意味の他に「ある」という意味もあるという「複数意味説」で言い逃れているのです。日本の英語学習者の大部分は "some"や"any"を"many"や"much"のように数量に関係する語であるということを信じ込んでしまっているため, 「"any"の次の名詞は単数ですか、それとも複数ですか?」という質問が絶えないのです。しかし、この質問は[”beautiful"の次の名詞は単数ですか、それとも複数ですか?」という質問と同じくらい意味のない質問なのです。"beautiful"という形容詞が数量と関係ないように "some"や"any"という形容詞は数量に関係するものではないのです。
次に、"some"と"any"が論理学的な形容詞であることの顕著な例を挙げておきましょう。
次の二つの文は同じ意味であることを理解してください。
上の(B)は否定文ですが、(A)の否定文ではないということを理解してください。
「好きな国がいくつかある」ということと「嫌いな国がいくつかある」ということは同じことを別の表現で表しているだけなのです。(A)の文を否定した内容は「どの国も嫌いで ある」ということになり、これを英語で表すと,
となります。
少し、レベルが低すぎて、指摘したくもないのですが、日本の英語学習者のほとんどが感染している「"some"は肯定文に、"any"は否定文や疑問文に使う」という規則はただのウソであるということを言っておきます。これだけ、指摘しても、指導者も学習者も一向に改めようとしないのが、このような本を書かざるを得なかった理由です。このようなことは、今日、今からすぐに、機械的に改めることができるものでありながら、躊躇し続けるのが英語学習者の特徴です。これでは、英語力など向上するはずがありません。
次の(B)の内容を否定する文は次のようになることを理解してください。
「私はどんな国でも好きです」これを英語で表すと
もちろん (E)が(B)の否定であるということは (B)は(E)の否定であるということを意 味します。
以上のことをまとめて、公式化すると次のように表すことができます。
| "some"の否定は "not any", "any"の否定は "not some"である。 |
この公式がいつのまにかこの国において上で指摘したように変貌してしまっているのです。このような論理学の基本を知らないで、英文法を論じたり、あるいは「英語によるディベート」などを行なうことはできないのです。自分が反論しているつもりでも、反論になっていない場合が日本人の「ディベート」には非常に多いのはこのためで、恐らく、私がここで主張していることに対しても、そのような反論がなされるでしょう。この話が理解できなければ、中学や高校の数学の教科書で「論理」を少し勉強しておくべきでしょう。「私は英語を勉強したにのであって、数学を勉強したいのではない。」等と言わないで。。。
| They don't like the Clinton on trial. |
冠詞も"some"や"any"と同じく、名詞を修飾する形容詞です。形容詞であるということは、他の形容詞と同様、それぞれの意味があるということです。日本で冠詞が議論されている場合は常に冠詞は意味のない語で、冠詞の有無や種類は次の名詞によって決まるという前提を疑うことができないため、「この名詞の場合は冠詞が必要ですか? 必要とすれば "a" ですか "the"ですか?」という質問しかできないのです。このような態度 が「冠詞」 を重要視しているようで、実は軽視していることになるのです。この態度は 、日本の短歌などの名詞にどの枕詞が使われるかということを尋ねている態度と同じで、論理学的に重要な意味をもった英語の冠詞を、ただの装飾的な日本語の枕詞と同じような扱いをすることは許されないのです。おそらく、日本語の「助詞」などの重要さを強調する人達は本能的に助詞が重要でないことを知っているのではないでしょうか?本質的に重要でないということを感じとると俄然興味を持ちはじめるのが国民性なのです。英語の冠詞にも興味を示す日本人が非常に多いのですが、これは本能的に「冠詞」を重要でないと思っているからでしよう。しかし、残念ながら英語の「冠詞」はそのような本能をも騙しているのです。つまり、英語において「冠詞」は本当に重要な言葉なのです。日本語の助詞のような無くてもよいもの、装飾的なものではないのです。
《定冠詞 "the"の主な用法》"the"は明らかに "that"から発達(あるいは退化)してきた形容詞で、この指示詞(日本語では「その」とか「あの」)としての "the"が非常によく使われています。実は翻訳などにおける最も多い誤訳はこの "the"に対する理解不足によるものです。次の例を見てください。
下線部分の "the protein"を「蛋白質」と訳してしまうと、この文の意味は全く不明になってしまうのです。この場合は "the"に注目して, "the protein"とは文頭の "a bacterial repressor"であることを理解した上で "the protein"は「そのリプレッサー」と 訳しておかなければならないのです。英語においては、前出の名詞を代名詞を使って表すということは、皆さんもよくご存じでしょうが、実際は代名詞で表す前に、その名詞の一般名(例えば、"repressor"をより一般的に表現すると"protein")で呼ぶという中間段階があるのです。
という定冠詞の用法が、現実に最も多く問題を起こしているのです。学校文法的な考え方をすれば、「"protein"の場合は "the"をつける」とか「化学物質の場合は "the"を 付ける」などという発想しかすることができないようです。
《冠詞 + 形容詞によって修飾されている名詞》"the ENTER key", "a book on the desk, "the children we are looking after"などの下線部分が名詞を修飾している形容詞です。形容詞によって修飾されなければならないということは、話し手の意識には、その形容詞がふさわしくない名詞が存在していることを意味します。上の例では "ENTER"以外のキー、机の上以外のところにある本、私たちが面倒をみていない子供が意識下にあるため、冠詞を使って指示をしているのです。"the"と"a"の違いは "that"と"one"の違いと同じですが、もっと具体的に言うと、"the ENTER key"の場合はそのようなキーは一つしか存在しないということを 意味し、"an ENTER key"と言えば、そのようなキーはそれ以外にも存在することを意味します。多くの英語学習者は「唯一のものには ”the"を付ける」という規則があると思っているようですが、その名詞に関する知識を試されているのではないのです。そんな規則はありません。そうではなく、話し手は"the"をつけることによってその名詞を唯一のものにするのです。そして、重要なことは、話し手がわざわざ唯一のものであるということを "the"をつけて示さなければならないこと自体、話し手の意識の中にはその名詞が唯一の存在ではないことを意味していることも感じとらなければならないのです。
のように、「唯一のクルマ」、「唯一人の人」という意味になるのですが、"the"を 付けてはじめてそのような意味になるということで、これは見方をかえれば、"the"をつ けなければ、「唯一」という意味がなくなるということです。「唯一のものだから、"the"をつける」という例の枕詞的な考え方ではなく、「唯一のものでないから、"the"を付けて唯一のものであることを示す」と考えるのが正しいのです。
《冠詞は形容詞であることを忘れてはならない》これを「不統一」であると指摘するのです。例えば、全て "a microphone"に統一してしまうと、マイクが一体いくつこの録音器に付属しているのかが分からなくなってしまうことが理解できないからでしょう。結局、このようなことは「名詞によって冠詞の有無と種類が決まる」という「冠詞=枕詞」説という大前提を疑うことを知らずに、無邪気な冠詞の研究を続ける人達の影響がこのような無教養なチェッカーと呼ばれる人達の態度にも現われてしまっているのです。上の、Check microphone ...のように冠詞が使われていない理由は「もう "the"という形容詞を使うのが飽きてきたから」なのです。従って、Check the microphone. と言っても別に間違いではないのですが、聞いてる方も意識の中のマイクは十分そのマイクだけになってしまっているため、「そのマイク」、「そのマイク」と繰り返されると耳障りになってくるのです。例えば、"the pretty girl"という表現を一度使ったからと言って、別の場所で"the girl"と言うのです。"pretty"などの形容詞と同じく、冠詞もを使っても、使わなくてもよい場合があるのです。但し、Check microphone...の代わりに Check a microphone...ということはできません。これは、"pretty"という形容詞を使うことができない"girl"に対して, "pretty girl"という表現を枕詞的に使うのと同じ位間違っているのです。とにかく、冠詞は人が思っている以上に、そして人が思っているのとは全く異なって意味において、重要な形容詞なのです。
《冠詞の用法に関するウソ》
"the sun"のような例のことを述べているようですが、この考え方では"sun"=「太陽」であるから、"the"を付けるということを言いたいつもりかも知れませんが、"the sun"=「太陽」ということは、"sun"≠「太陽」であることを意味してしまっている矛盾に気が付いていないようです。通常、英語では人々の意識の中には、種々の"sun"が存在してい るため「太陽」を表す場合は「あの sun」という言い方をするのです。もちろん、時には意識の中には、”sun"が一つしか存在しない場合もあり、この場合は、冠詞を付けないで "sun"と言うのです。学校文法などは "sun"に"the"が付いていなければ、鬼の首でも取ったように訂正を要求しますが、このような態度は、人間の意識の仕方まで支配しようとする危険なものなのです。「宇宙に唯一のもの」などという大げさな言葉で威嚇しているだけで、論理的には「 "sun"のように三文字から成る名詞には"the"を付ける。」と同じ位いい加減な規則なのです。英米人の子供が「宇宙に唯一のものだから」などという判断をして "sun"に "the"を付けているとでも本気に思っているのでしょうか?
"the Clinton", "the Bill Gates"などのように事実と照らし合わせば、このような規則は存在しません。冠詞が "this"とか "that"のような指示語であるということは、話し手の意識の中にその名詞が複数個存在しているということを意味するのです。従って、話し手の意識の中にある名詞が一つしか存在しない場合は、冠詞をつける必要はないのです。例えば、"Press ENTER."「ENTERキーを押してください。」などの場合は、話し手の 意識の中には "ENTER"が一つしか存在しないということが、この文から分かるのです。意識の中に一つしか存在しないということは、実際の世界(宇宙)に一つしか存在しないということとは何も関係ありません。アメリカにだって "London"という町や村があるのですが、通常私達が "London"という場合は、英国の首都のことで、私たちの意識の中には"London"は一つしか存在しないため、「私が住んでいるアメリカのLondonではなく、英国 の首都であるLondon」などという説明は不要で、”London"で十分なのです。「固有名詞 だから冠詞は不要」などという機械的な処理を行なおうとするから、"the Clinton"等の ような冠詞の使い方は永遠にできないのです。私に言わせれば、このような規則を本気で信じている人達は、本当の英語に接したことが全くないと断定せざるを得ない人達です。それほど、「固有名詞」には冠詞がよく使われるのです。例えば、私の友人でも "John" という名前の人は5人もいるのです。「私と一緒に働いていた John」は "the John I was working with"となるのです。しかし、話が進むにつれ、その "John"が意識の中に存在する唯一の "John"という状態になれば、冠詞が自然に外れてくるのです。
このような規則は恐らく、"Mother went shopping yesterday."のような文の "Mother"に冠詞が使われていないことについて、考えた挙げ句「家族の名前」の場合は冠詞 を付けないと判断したのでしょう。英語関係者が自分で自分を納得させるときの論理がここでも使われています。この問題は「"Mother"などの家族の名前の場合は、なぜ冠詞が使われないのですか?」という問題であるにもかかわらず、その答えは「家族の名前の場合は冠詞が不要であるから」ということになってしまっているのです。このようなことが説明として通用するのは日本の英語教育界だけです。「水はなぜ氷になるのですか?」という質問に対して「水は氷になるから」と答える理科の先生がいるでしょうか?「三角形の面積はなぜ底辺×高さ÷2なのですか?」という質問に対して「三角形の面積は底辺 ×高さ÷2であるから」と答える数学の先生がいるでしょうか?「なぜ,I go to shoppig.ではなく、I go shopping.と言うのですか?」という質問に対しては「I go to shopping.とは言わないから」という説明がされていますし、「なぜ、I am afraid of that it will rain.と言わないで、I am afraid it will rain.と言うのですか?」に対しては「"of that"とは言わないから」という説明が返ってくるのです。日本の英語の先生にとっては説明できないものは存在しなくなってしまっているのです。
"Mother"に冠詞を付けていない理由は、話し手の意識の中に、"mother"が一つしか存在しないからです。家族同志で会話をしている場合は、通常は"mother"は一つしか存在しないのです。頭の硬い人には少し難しいかもしれませんが、「冠詞を付けていない名詞を固有名詞」という定義を採用すれば、この問題はスッキリするのです。例えば、We don't like the Bill Gates as a business man.のように使われた "Bill Gates"は固有名詞ではなく、I like Mother.のように使われた "mother"は固有名詞であるという考え方が正しいのです。そして、このように定義した固有名詞は実は「意識の中における唯一の存在」と同義語になるのです。「地名や人名を固有名詞という」などという定義を前提にしている学校文法では、冠詞を説明することはできないのです。
「冠詞=枕詞」説の最たるものですが、この「規則」が単なるウソである実例が日常 的に存在するにもかかわらず、それに気付かない、それを認めようとしないということは日本人の何か深い精神的病理ではないかとと思ってしまいたくなる程です。これは、「権威に弱い」(権威に弱いのはどの国でも同じ)という問題ではなく、その反対の問題と言った方がよいのではないかと思ってしまいます。つまり、怪しげな権威も何もない日本の受験参考書が勝手に言っていることは信じるけれども、Time誌などの「権威」の使っている英文の用法を無視しているのです。野球選手などで、日本のプロ野球で通用しなくなったから、メジャーリーグに行くという考え方ができるというのも「権威」を無視しているからでしょう。「短いもの」を「長いもの」と思い込み、短いものに巻かれているだけであるのに、自分では長いものに巻かれていると錯覚している非喜劇的な状況です。
他の国ならば、Time誌が ”A second car will be needed."のような英語を使えば、このような「規則」はウソであるということをすぐに判断し、そのような「規則」を即時に捨ててしまうのですが、日本では「なぜ "Time誌ともあろうものが、このような文法的ミスを犯すのだろうか?」という問題に発展していくのです。従って、「二台目のクルマが欲しい。」という場合でも "I need the second car."という全く意味の異なる英文を作ってしまうのです。もちろん、"the"は枕詞的にしか捉えていませんから、"a second car"と "the second car"の意味が全く異なることなど想像もしていないのです。それほど "the"を付けたければ、"the second"という二語からなる語句を "thesecond"という一語にして辞書に載せておけばよいのです。"the"と"second"との間にスペースがあるの は "the"が他の語で置き換え可能であることを意味していることくらいは分かって欲しいものです。地震学の教科書には神戸市を断層が走っていることがはっきり記されていたにもかかわらず、誰もそれを認めなかったために、神戸市は地震に対して無防備であったと同じような情況が英語の世界の特徴となってしまっているのです。一度「大地震」に相当することが起こらない限り、この情況は無くならないでしょう。本書が地震になってくれればよいのですが、ほとんど期待できないのが現状です。
"some"と"any"の項で説明しましたが、どうも日本人は「否定」するということの意味を理解していないのではないかと思われます。相手の主張を否定するディベートなどでも、否定するということはどういうことかということが分かっていないため、相手の主張を支持するようなことを反論として使ってしまっている場合もあるのです。例えば、相手が「彼は土曜、または日曜に働く。」と言ったことに対して「彼は土曜と日曜のどちらかは働かない。」ということを言って反論したと思っているのです。「ない」という言葉をつければその文を否定したと思い込んでいる人が多いのです。このことを説明するには、デジタルエレクトロニクスの "AND" ゲートや "OR"ゲートの説明等で使われている、真偽表を使えばよく分かります。
| 土曜日 | 日曜日 | |
|---|---|---|
| 1 | 働く | 働く |
| 2 | 働く | 働かない |
| 3 | 働かない | 働く |
| 4 | 働かない | 働かない |
この表は全ての場合を表しており、「土曜または日曜日に働く」という場合は、1,2.3 の場合であり、その否定とは、それ以外の場合、つまり 4になります。4.を日本語で表すと「土曜も働かないし、日曜も働かない。」となります。そして、このことを表す英語は二通り存在します。一つは 1,2.3 否定する表現、もう一つは 4.に相当する表現です。
英語では、AもBも両方とも否定する場合は AまたはBを否定するという方法をよくつかうのです。このことを公式化すると NOT A and NOT B = NOT(A or B)となります。
また、「土曜日も日曜日も働く」-- 1 の反対は 2,3,4 です。これは、He does not work on Saturdays. Or he does not work on Sundays.
のことですが、このことは、1 の否定文、He does not work on Saturdays and Sundays. このことを公式化す ると NOT A or NOT B = NOT (A and B)となります。
この NOT A and NOT B = NOT(A or B)と NOT A or NOT B = NOT (A and B)を合わせてド ・モルガンの法則と呼んでいます。
このことに関しては、学校文法は「部分否定」(つまり NOT(A and B)の場合)と項目で 説明していますが、「部分否定」の対立概念である「全面否定」(つまり NOT(A or B))に関連させることができないまま終わっています。
この「全面否定」を利用した英文には次のような例があります。
となります。